遠い昔、海に憧れた森の木がありました。
その木は、或る日森に現れた【時間の鳥】にその実を運んでもらい、遥か遠い海まで行くことが出来ました……彼の願いは叶ったのです。
海は想像していたよりもずっと素敵で美しく、広い空は透き通って晴れ渡り、木は日々に満足しながら暮らしました。
しかし、海には苦しいこともありました。塩がチクチクと染みて痛み、木の身体はいつの間にか傷だらけになってしまったのです。
『嗚呼……僕はとうとう永遠を見ることは出来なかったけれど、やっぱり美しい海を見に来られてよかった、幸せだったな……。』
木はそう想いました……そして、やがて永い眠りについたのです。
青く晴れ渡る空にはカモメが舞い、潮騒がいつまでも続いておりました。
遠く静かに……。
立ち尽くす木は乾いてひび割れ、やがて美しかった色もすっかり失われましたが、それでも木は風に吹かれながら、そこにありました。
……木の傍らにはいつまでも、一匹の魚が寄り添っておりました。
小さなテオという魚です。テオは生まれてからずっとそこで暮らし、心地良い木漏れ日の中で遊ぶのが大好きでしたので、木が枯れてしまったことをとても悲しんでいたのです。
『君にはいつも助けてもらったね……恐ろしい魚や、嵐に荒れる暗い夜、それに強く照りつける太陽の日差しからも……僕を守ってくれてありがとう。』
ある時テオは、そうつぶやきました。
すると、海に優しい風が吹き、まるでそれに応えるかのように一枚の葉が水に落ちました。
それはとても頼りなく、泡沫のようにしばらく水面を漂っておりましたが、やがてゆっくりと揺れながら海の底に沈んで行きました。
テオはその様子をしばらく静かに眺めておりましたが、ふと思い立ち、その落ち葉に身を寄せました。
そして……優しくキスをしたのです。
すると不思議なことが起こりました。
色褪せていた枯れ葉がキラキラと光り、しなやかに躍ったかと思うと一匹の魚に生まれ変わったのです。
それは、オールドリーフという名の美しい緑色の魚でした。
テオは跳ね上がるほどに嬉しくなり、輝くような笑顔で言いました。
『嗚呼……また逢えたんだね、嬉しいな、本当に良かった。』
オールドリーフはまだ言葉が分からない様子でしたが、やはり嬉しそうに長い尾ヒレをゆらゆらと揺らしながらテオの回りを泳ぎ始めました。
テオも楽しくなって歌い始め、やがて二匹は仲の良い兄弟のように泳ぎ出しました。
それはまるで草原を駆ける風のように、大空を飛ぶ鳥のように、自由で楽しく愉快なものでした。
……しかし、まもなくしてふと見ると、オールドリーフは何故かとても苦し気な様子を見せました。
すると、それに気付いたテオは悲しそうな表情を浮かべましたが、すぐに優しくしっかりとした口調でこう言ったのです。
『しっかりして……大丈夫、僕がついているからね。さぁ、行こう。』
テオはオールドリーフの体を押して、泳ぎ出しました。
小さな二匹のすぐ近くを、大きな鳥や恐ろしい魚たちが通り過ぎました。
しかし、それでもかまわずテオは前に進みます。
苦しむオールドリーフを連れての道のりは想像以上に長く、やがて波と風が荒くなったかと思うと、運の悪いことに強い雨まで降り出してきました。
けれどもテオは、決して泳ぐのを止めませんでした。
『心配ないよ、もうすぐだからね……』
テオは激しい雨音を聴きながら、嵐の日に木の根元に身を寄せて守ってもらったことを想い出しておりました。(大丈夫、こっちへおいで……)その優しい木の声は、まるでユリカゴの中にでも居るように、不思議に穏やかな気持ちにさせてくれたのです。
(今度は僕が助けるからね……)
二匹は頑張りました。
そうしてようやく、川の入り口まで辿り着いたのです。
不安気にじっとしているオールドリーフに向かい、テオが静かに口を開きました。
『……さぁ、やっと着いた。淋しいけれどここで僕らはお別れだよ、だけど悲しむ必要なんかないからね、またきっと何処かで逢える……さぁ、もうこれ以上塩水を飲まないうちに、早く森へお帰り……急いで。』
オールドリーフはしばらくの間そこを離れようとしませんでしたが、テオに何度も促され、やがてゆっくりと何かを想い出すように遥か遠い森まで続く川を泳ぎ始めました。
そうして、ゆらゆらと何度も何度も後ろを振り返りながら小さくなり、次第に見えなくなったのでした。
テオは静かに微笑んで、その姿を見送っておりました……いつまでも、いつまでも。
(さよなら、ありがとう……またね。)
草木は生き物に、生き物もまた草木に生まれ変わります。
そうして命は絶え間なく森を巡り、美しい物語を紡ぎ続けます……永遠に。
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