……ここは、ムカシギの森です。そう、今は花も減りましたがそれほど悪い場所ではありません……
オレンジ色に燃える焚火の向こう側に座るその大柄な男は、しばらく前からおっとりと話し続けておりました。
……遠い昔には、美しい鳥も沢山居ました……
ホーボーは、いったいいつから自分がここで男と会話をしているのか、ぼんやりと考えておりました。
ほろ酔いのために、うっすらと生温い空気がまとわりついて、上半身がのらりくらりと勝手に揺らいでいるようです。
男の声も朧(おぼろ)で、所々聴き逃してしまいます。
……魔物が棲んでおりました……
……魔物?……
……そうです……シルキジャンという、角も翼も尻尾も無く、二本足の……
ホーボーは、その言葉を以前にも何処かで聴いたことがあるような気がして、なんとか記憶の糸をたぐり寄せようとしました。
しかし、突然森の奥から『ザワザワッ』と何かが動く物音がして、それはすぐに遮られました。
驚いて不気味な気配のする方向に注意を払うと、樹々の奥深い暗闇から『ギエッギエッ』と、けたたましい叫び声が響き渡りました。
それはほんの少しの間騒がしく続いた後、不穏な空気だけを残しつつ、ふっと静かになりました。
……大丈夫、ヌエという鳥ですね……
やはり息を殺しながら様子を伺っていた男が、ほっと安堵の声を漏らしました。
暗闇の中に、赤々と燃える炎だけが二人の影法師を長く伸ばし、チラチラと揺らしております。
また元のように静まり返った周囲の気配にようやく気分が落ち着くと、今度は急に全身が気怠くなり、なんとも言いようのない眠気に包まれました。
……心配ならば、これをどうぞ……
まるで熊のように背を丸めた男は、何かをおもむろに懐から取り出し、パチパチと爆ぜる焚火越しに投げてよこしました。
ホーボーが受け取ったそれは、小さな木片で出来たなんとも素朴な二つのお守りでした。
魔除けです……気休めの呪(まじな)いですが、それでも信じれば結構効くものです。
魔除け……?
安心して下さい……もうここには魔物は居ません。
今はもう、居ないのです。
そう、ですか……
とろりとした夜空に視線を移すと、つい先程まで半分隠れていた月が顔を出し、静かに笑っているように見えました。
それはどうも、ありがとう……
無意識に深く息を吸い込むと、思いがけずとてつもなく大きなあくびが一つこぼれました。
芽吹きの香りの混じる新鮮な空気が肺を満たすと、ほろ苦いものが血に溶けて全身を巡り、耳の奥がすっと透明になります。
(安心して下さい……もうここには魔物は居ません。)
ふと手元に視線を戻すと、何故か魔除けが一つ割れていました。
その瞬間、ホーボーは弾けるように地面を蹴って駆け出しました。
走り出してすぐに腰が抜けてしまい、曲がりくねった木の根に足がもつれて転んでしまいましたので、四つん這いになったまま夢中で転がり続けました。
転んで、逃げて、逃げて、転んで、……どれほど走ったでしょうか、恐ろしく蔓の絡まった深い茂みを死に物狂いで突き抜けると、なんとも明るい月の草原に出ました。
(嗚呼、どうにか、助かった……)
蒼白い月明りの下でようやく我に返ったホーボーは、ほっと胸を撫で下ろしました。
そして、不思議なことに気付いたのです。
必死で握りしめていた筈の魔除けが無くなっており、なんと己の身がいつの間にか一匹の小さなカヤネズミに変身しておりました。
しばらく唖然とした後、ネズミとなったホーボーは大きな溜め息を一つ、つきました。
それから、我が身に起こったことを呆れたように夜空を見上げ、少しだけ苦笑いをしながらつぶやいたのです。
(こんな日もあるさ……)
そうしてホーボーは、自由の草むらの中に軽々とした足取りで消えたのでした。
草原を照らす美しく黄色い月だけが、それを静かに見守っておりました……
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静かに騒めく、ムカシギの森。