蒼く美しい月が、わずかに欠けました。
森は海のように眠っています……知恵の鳥も、マヨイの木も、ネズミも、深い森の暗闇の底で静かに揺れる夢を見ている時間です。
けれども、青く澄んだ光に照らされた草原には、動く影が一つ。
ロッカが、そっと歩き始めたのです。
香ばしい匂いのする草を分け、柔らかい土を踏んで前へ進みます。
ゆっくりと血が沸き始めると、耳の奥は透明になり、鼻孔は大きく膨らみます。
やがて景色は消え、風に乗って届くあらゆる音や匂いが判るようになります。
ドクン、ドクン、眠らない心臓は鼓動を早め、ロッカは荒野を渡る疾風のように、走り出します。
走ります。
ひたすらに、ひたすらに、走り続けます。
それは、命の旅です、燃え尽きる寸前の花火のような、美しさです。
世界が、廻り始めます……
今はもう遠い昔、僕には一人の友達がおりました……今夜は、彼のことを話したいと想います。
『僕、この絵好きだな。』
『……ありがとう。』
遠い海の向こうから来たという少年ロッカ、それが彼との最初の出逢いでした。
しなやかな獣を想わせる少年からふいに発せられた声は妙に大人びて柔らかく、その不思議なアンバランスさに一瞬戸惑いましたが、僕は自分の描いた絵が異国の少年に好かれたことを知って、すこぶる嬉しくなりました。
『この絵と一緒に、何処か旅に出ようか……?』
それは、仲の良い友達を映画や買い物にでも誘うような気軽さでした……屈託や悪意など微塵も見当たらない笑顔です。
(なんだかまるでゲームか映画の主人公の登場シーンみたいだな……)僕はそう想い、心のどこかでちょっと可笑しくなりました。
今になって想えばあまりにも唐突な誘いでしたが、ふと(なんだかそれもいいかな……)と感じた僕は、笑顔で返しました。
『そうだね……僕は全然かまわないよ、うん。』
その頃、思春期の少年特有の憂鬱を持て余しながら何処かへ消えてしまいたいという衝動に取り憑かれていた僕は、突然目の前に現れた非日常からの誘いに、もしかしたら何かが変わるかもしれないという希望めいたものを感じていたのかもしれません。
そうして、退屈な夏の日々に飽き飽きしていた二人の少年は、その日から自由で不思議な旅を始めたのです……
夕暮れ、僕らは隣街外れの路地に絵の沢山詰まった古い鞄を並べ、仲良く座ってお客を待っておりました。
表通りには足早に過ぎる仕事帰りの人波、オレンジ色の夕焼けに染まったベンチにはヒグラシの鳴き声がまるで夏のシャワーのように心地良く降り注いでいます。
『素敵ね。』
ふと、食材らしき紙袋と一目で高級と分かる洋酒のボトルを下げた女性が、僕らに声を掛けました。
『どうぞ、ごゆっくりご覧下さい。』
すかさずロッカが笑顔を作り、僕も急いでおじぎをしました。
『こういう絵は初めてだけれど、なんだか色が素敵ね。うん……出来れば、一人ぼっちで寂しい時に眺める絵が欲しいわ。』
女性は、何枚かの絵に目を通した後、静かに目を細めてそう言いました。
ロッカはすっと立ち上がり、『分かりました、じゃあ、二番目に寂しい絵を……』と答えました。
その視線は、僕に絵を選ぶよう目配せをしています。
『あ、はい。』
僕は小さく頷き、二十枚ほどの絵の中からロッカの言う(二番目に寂しい)と思える風景の一枚を選んで、二人に手渡しました。
一人の男が、孤独に耐えながら暗く陰鬱な夜の森を歩いて行く絵です。
『ありがとう、はい。』
絵を受け取った女性は黙って少し多めに代金を支払い、現れた時と同じ物憂げな余韻を残しながら黄昏の雑踏に溶けて行きました。
女性を見送った後、僕はロッカに尋ねました。
『大丈夫だったかな。もっと明るい絵の方が良かったんじゃないかな……』
去り際に見せた彼女の表情が、どこか重く沈んで見えたので、僕は少し気が引けていたのです。
『そうかな……』
ロッカは、まるでそんな心配を気にも留めない様子でした。
その横顔は、あたかも地下鉄の階段へ向かって歩き続ける彼女の姿がまだ見えるかのように、女性の去った方角を見つめたままでした。
その夜の僕らは、川原で焚火をしながら、近くの畑から拝借したトウモロコシを四本ほど茹でて夕食にしました。
夏の星座がくっきりと見え、少し湿った風の心地良い夜です。
一日の終わり、他にすることもなくなった僕らは、草の匂いに吹かれながら寝そべり、他愛のない会話をしながら眠りに就きました。
本当のことを言うと、僕は、これからのこと、今までのこと、色々なことを考える必要がある気もしましたが、それら全部がなんだか馬鹿らしくて下らない問題のような気がして、ただ静かで美しい満天の星、空の下、夢を見ることにしたのです。
ロッカと僕は、とにかくとても気が合いました。
絵が不思議によく売れたことも手伝って、旅の時間は想像よりも遥かに静かで、まるで穏やかな音楽のように流れました……
二週間ほど経った頃、僕らは海沿いの街におりました。
その坂の多い街はひどく古めかしく、何処に居ても群青の海原から風に乗って届く潮の香りに溢れ、ウミネコたちの歌声が絶え間なく聴こえていました。
『なんだか、いい街だね。』
絵を売りながらの旅に慣れ始めた僕らには、それなりに街の景色や空気を楽しむ余裕も生まれました。
その日の僕らは、小さな漁港の見える公園の片隅で、鞄を広げることにしました。
『ほぅ……森の絵か。』
いかにも自信に満ちた漁師人生を歩んできたと想わせる屈強で大柄な老人は、そう言って少し悪戯っぽく目を細めました。
最初は、酔っぱらいの暇つぶし、あるいは見慣れない【よそ者の小僧】をからかいに来たのだなと憶測しましたが、意外にも老人は真剣に絵を吟味し始めました。
懐かしい日々を想い起こすかのように独り言をつぶやきながら絵を吟味する彼を、僕らはそっと黙って見守っていました。
『海と森は、なんだか似ているな。』
やがて老人はカブトムシの居る木の絵を買い求め、皺の深く刻まれた手で代金と小さなウイスキーボトルを僕らに置いて行きました。
『孫の誕生日なのさ、じゃあな。』
『おめでとうございます、ウイスキーどうもありがとう……ごちそうさま。』
老人と手を振り合って別れた僕らは、まるで心臓のように赤く染まった夕陽を見下ろす丘へと登りました。
その丘の頂上付近には、街に到着した朝に見つけておいた、素晴らしく寝床にぴったりの洞窟が在ったのです。
その白い海の街とひどく眺めの良い洞窟が気に入った僕らは、しばらくの間そこで過ごすことに決めました……
絵の売れそうにない日には、いつも海へ向かいました。
綺麗な魚を追いかけて水に潜ったり、港に寝転んで、朝から一日中船を眺めたりしました。
雨の日には洞窟の中で静かに絵を描き……そんな時のロッカは何処かで拾ってきた謎の本を読みふけり、それに飽きると、奇妙に音痴な歌を口ずさんで僕を笑わせました。
潮騒の砂浜では不思議な木片や骨を拾い、美しい海や生き物の絵が、沢山増えました……。
よく遊びに来る小さな兄妹があったので、僕らは打ち捨てられた木の浮き輪を削ってサイコロを作り、彼らにプレゼントしました。
するとその翌日には、朝から並んで集まった子供たち全員分のサイコロを作る羽目になり、ロッカはその顛末を大笑いしながら楽しんでいました。
出逢ってからずっと感じていた、彼の背中に張り付いていた孤独の影も、少しだけ透明になった気がします……
そんなある日、その街には珍しい観光客と思しき身なりの中年女性が、公園に絵を見に来ました。
ロッカは絵の具と食料の買い出しに出かけており、僕が一人で留守番をしている時でした。
『こんにちは。』
『いらっしゃいませ。今日はいい天気ですね、こんにちは。』
『あなたがお勧めの絵は?』
そう言われた僕は、少し考えてからなるべく明るい色合いの絵を選んで、彼女に手渡しました。
その数枚は、どことなく派手な化粧と服装をした婦人の好みに合うような気がしたのです。
しかし、彼女は黙ってしばらく絵を眺めた後、ポツリとつぶやきました。
『人生って本当にろくでもないわね……この前、家族が家を出て行ったのよ。』
その言葉がどういう意味を持つのか、独り言なのかあるいは何か答えを求めて自分に向けられたものなのかさえ判断出来ずにいた僕は、なんともぎこちない表情を浮かべ、困惑してしまいました。
『そんな旅には、この一枚がいいと思います、はい!』
その声に驚いて振り向くと、買い物から戻ったロッカがいつの間にか後ろに立っていました。
……ロッカは、少年が草原に佇む絵を選んで婦人に差し出し、彼女が握っていた花の絵と交換しました。
ふっと潮の香りがして、婦人の前髪が南風に揺れました。
『君たち、どうもありがとう……旅はいいわね、こういう出逢いがあるものね。』
『はい、その通りです。』
僕らは少しの間色々な会話を交わし、婦人を見送りました。他愛の無い世間話の途中、ハンカチでそっと目頭を拭く彼女を、僕らは何度か見て見ぬ振りをしました。
『じゃあまた、お気をつけて。』
遠くで、港へ戻る船の汽笛が鳴りました……。
その日の夜遅く……僕らはそろそろ次の街へ旅立つことに決めました。
それから、海の街最後の夜を惜しむかのように、どちらからともなく洞窟の前で焚火を起こし、いつかの漁師の老人に貰ったウイスキーのボトルを空けました。
草むらでは、いつまでも鈴虫が鳴き続けていました……
抜けるように青く晴れ渡った翌朝、僕らは古びた列車の席に向かい合って座り、ガタゴトと揺られておりました。
まるで冗談のように眩しく美しい緑の田園風景が、次々に窓の外を流れて行きます。
『なぁナギ、楽しい人には楽しい絵、悲しい人には悲しい絵を渡すんだぜ。』
それは、彼のいつもの口癖でした。
『うん、分かったよ。』
『笑顔の後ろに隠れているカナシミも見逃すなよ……それから、自分が幸福な時に悲しい絵を見て喜ぶ人は悪趣味さ。そういう時には、少し多めに代金を貰え(笑)』
『うん、大丈夫、ちゃんと忘れてないから心配するなよ(笑)』
『そっか(笑)……そうだな……。』
それから僕らはしばらく黙って、白い入道雲の沸き上がる輝く夏の空を眺めておりました。
心地良いリズムの振動と古びたシートのくたびれた弾力が睡魔を誘い、いつしか僕らは、二人仲良くどこか甘く懐かしいまどろみに落ちて行きました……
(……なぁ、一番悲しい絵は売らずに残そうぜ、そうすれば、最後に本当に一番悲しい絵が残るからな。)
夢の途中、ロッカの声が聴こえた気がしました。
(ああ、そうだな……それより、今度は船に乗って何処かへ行こうぜ……)
僕は、そう答えました。
……旅は、続きます……きっと、いつの日か、また。
朗読はこちら